オーロラを観たくて、ノルウェー北極圏に 

宮平順子    



はじめに

 誰でも、一生に一度は、という夢がある。
だが、夢とは言っても、どこに行きたいとか何を食べたい、という程のものであれば(不老長寿の実、みたいな話は別として)比較的容易に叶う昨今である。私の長年の夢は、オーロラを見たいという、それこそ、ささやかな夢だった。
何故オーロラか、といえば、母が生前話していたのが、オーロラは綺麗だ、というのと、金属的な音が聴こえた、という話だった。
今までTV, 映画でオーロラは見てきたが、本物はまだである。まして音付きなんて。
ところが、今年の始め、Vantage旅行社から届いた旅行案内のトップは、今年は太陽の黒点の影響で、オーロラ鑑賞には最適だ(実際には、11年周期の最終年だとか後で知った)、という文字と、ノルウェーの沿岸クルーズで、オーロラ鑑賞を!という宣伝文句。高齢者をターゲットにしたこの旅行社は、高齢者の弱みをしっかり掴んでいる。今年を外したら、あと何年かはダメかも(あなたの寿命、持ちますか?)と言わんばかりの宣伝攻勢。しかも、オーロラは、春分・秋分のあたり、季節の変わり目で一番よく見える、とも聞く。 3月4日出発で、18日に帰る、というのが一番近い,というので、思い切って申し込む。クルーズ船舶は、ノルウェーの会社で、南極、北極を得意としている。友人が、南極に行った時も、この会社だったようだし。

申し込んだはいいが、さて、着るものをどうするか。今までの旅行は殆ど季節も地域も温暖であった為、ベラベラ、クシャクシャでも構わなかったが、北極となると思いつくのは、植村直己さんのエスキモー・スタイルか、三浦雄一郎さんの滑降スタイル。どちらも持っていない。だが、旅行社の写真を見ても、誰もモコモコ服を着ていない。旅行会社の案内情報では、ノルウェー沿岸は、フィヨルド地形の中を運航するので、内陸よりも温暖であるから、通常の冬支度で充分だと。本当かと気候関連で調べてみたら、確かに乗船するベルゲン港あたりは、ニューヨークと同様の温度ではあるが、北上して、北極圏に入ったトロムソとか、北極(ノールキャップ)岬、ロシア国境近くのキルケネスでは、温度差が10−20°ありそうだ。
実は当初、ノルウェーでは温度表示が摂氏なのか華氏なのかも知らず、米国と同じ華氏だと思い込み、5°の表示を華氏と思って仰天した。緯度から言ってもシベリア並だし。文字通り震え上がってしまい、すぐ靴屋さんに行って、寒冷地用のブーツを買ってきた。ところが色々調べてみると、ノルウェーでは摂氏表示だと気づいたのだが、今振返ってみれば、このブーツは大正解だった。慌てついでに、ユニクロにも飛んで行き、ヒートテックのセーターとタイツも仕入れたのだが、これも正解だった。してみると、旅行社の案内は、一体誰が書いたのか、と文句の一つも付けたくなるのだが。 (文句を付ける横綱のアメリカ人が案外黙っているのは、何故だろう?)

ベルゲン到着

 4日の午後の便で、NYから、デルタ航空でアムステルダムに向かい、そこからノルウェーのベルゲンに。5日の昼に到着し、全米各地から色々なルートで三々五々集まった人達が総勢22人。クルーズ乗船は翌日である。早速自己紹介をし合って、アリゾナから来たマリリンとミネソタから来たシンディと仲良くなった。ギャラリー・コンサルタントのベッキー、薬品化学調査官のルーツ・マリア、大学教授のデール・セバーグ夫妻等、と、多彩な人達である。今回の添乗氏は、ノルウェー人のフレデリック・カーセ氏で、旅行添乗は長年のベテラン。だが、このベテランが曲者だというのは旅の進行中徐々に判ってきた。

 翌日は、クルーズ船に乗船の日だが、船出は夜だから、昼間は自由。そこで、ホテルの近くに美術館があるのを幸い、一人で美術館に行ってきた。小ぶりながら、造りのいい美術館で、丁度ムンク展をやっている。ムンクはノルウェーでは最も有名な画家である。幸い、私はNY近代美術館でのムンク展を観ていたのだが、故国で観るムンクは、何故か絵自体がホッと安心しているような気がする。ムンクも良かったが、何より美術館の展示の仕方と、館内移動が実に自然で、ゆったり廻る内に、ちゃんと最初のギャラリーに到着する、というのは、NYのメトロポリタン美術館の迷路のような大美術館で、いつも迷子になる私には、新鮮な驚きだった。館員の人に、そのことを伝え、お礼を言うと、とても喜んで下さった。(下は美術館とデザイン館)

     
 ベンゲル美術館      ベンゲルデザイン美術館


  午後のバス・ツァーでは、ノルウェーの誇る作曲家でベルゲン出身の、エドワルド・グリークの住んだ家の敷地に出来たグリーク博物館に行く。最近の観光の目玉だという。博物館で、ペールギュントの演奏を含んだグリークの生涯の映画を拝観。この博物館は、グリーク氏亡き(1907)後、夫人が夫と生活した家(築1885年頃)の近くに建てたもので、映画を含むコンサートホールがある。グリークというと、アインシュタインのような頭髪の人を思うが、あれは、実は、彼(そして妻も)は背が低く(152cm)北欧の長身の中で、彼は非常に気を遣い、例えば写真など取る時は、必ず、他の人よりも若干前に出て、背の低さをカバーしようとした、とか、実際の話が沢山出てきて面白かった。

     
 湖のほとりに建ったグリークの思索の家
 (赤い壁の小家)
      グリークの家
グリーク博物館もある    


家の近くには、グリーク氏が曲想を得ようとする時篭った小屋があり、その小屋には、現在誰も外部の人は入れない。映画では、ピアノ協奏曲やペールギュントの部分を聞かせながら、その曲を作曲する上で背景となったのではないかと思われるノルウェーの大自然、山河、急流、渓谷など被さって、音楽に詳しくない一般の人にも何となく納得するように出来ていた。

グリークのペールギュントの「朝」は、ここから聴いてください

ノルウェー沿岸を北上する

 今回は、ハーティグルーテンという船会社のその名もNordkapp(North Cape北岬)号で、キャビン数200位、デッキ数7という小型沿岸船舶である。船内は、機能的に出来ていて、バー、食堂、買い物、会議室全て4階に集め、2階、3階、5階、6階が客室、7階がデッキと展望室となっている。この2階にジムがあり、サウナもついている。6階にはジャクジーがあるので5階の私のキャビンからすぐの階段を上がれば入れる。但し、余り温度が上がらず、寒すぎてすぐ諦めた。乗船客は、ドイツ人が一番多く、私達Vantage 23人ほどのグループに加えて、22人の日本人のグループがいた。食事時など、偶々同席した方に東京から来られたご夫妻がいて、少しお話も出来た。奥様とは話が弾み、またどこかで、と。

 沿岸航行なのは、頻繁に港に立ち寄り、食糧・水などを供給しながらということもあって、停泊中は、乗客も、陸に上がれる。貰った資料を見たら、出発港(ベルゲン)を北上し、ノルウェー最後の港キルケネス(ロシア国境近く)まであれこれ立ち寄り、その後、今度は南下して、元の港に戻って来るのだが、その港数は32だと。無論、夜中も航行するので立ち寄る全ての港で上陸出来るという訳ではない。停泊時間が30分以下は下船させない。
一応私は上陸許可のある港はすべて上陸希望参加したのだが、北上するにつれて、上陸許可があっても船に残っているという人の方が多くなった。それもそうだろう、何しろ、上陸しても、港で、数分で歩いていけるところに、見るべきものが必ずある訳でもない。フレッドが港町で見せてくれたのは、教会と老人ホーム(市営が多かったが福祉の充実をアピールしたかったのか?)、スーパーマーケット位。寒い中苦労して歩く甲斐があるのか、というほどのもの。実際、段々参加者は減り、5日目の朝などは、私達のグループでは、私を含めて3人のみが上陸希望だった。フレッドは、「君達、本当に歩きたいのか?」と、イヤイヤ。

         
 大きな港(左)と、「暗い艀」なんていう歌が聞こえてきそうな小さな港町  


 とはいえ、一時間以上停泊した港町は、それぞれ雰囲気があって、街の佇まいは清潔と勤勉という感じがした。また、ブロンズ彫刻が、あちこちの街角にあるのだが、どれも、日常生活と密着した、たとえばニシンを捌いている母親とか、痩せた浮浪者とか、バンザイをしている子供とかで、浮浪者などは、彫刻なのに、その指には、誰かが挟んでくれたタバコが煙を出していたりして、人々の暖かい気持ちとゆとりが伝わってくる。また、各町長さんが観光資源を大事にしているかどうか、その姿勢が自ずと判ったりして面白かった。大きな港では沿岸警備の基地もあったが、私達の航海する地域は、極めて安全度が高かったと思う。
                

       
 道行く人が恵んでくれるのか
浮浪者の指にはいつもタバコが。。。
   寒空の中 ニシンの保存を    可愛い坊やにはつい。。。


北極圏に入る儀式

 乗船4日目の午前7時22分14秒に北極圏に入った。前日の夜、この北極圏突入の瞬間時刻を乗客員に推測させ、一番近い人に賞品をくれる、というので頑張って投票したのだが、船が北極圏に入った時、ボーっと警笛を鳴らして、皆ワット湧いた。デッキに乗客が集まると、司会者(船内のアナウンスも担当していて、諾、英、仏、独を流暢に話し、かつ、非常に有能なエンターテイナー)が出てきて、ピタリと時刻を当てた二人を紹介し賞品を渡し、では、海神(ネプチューン)を呼び出して祝福を皆さんに、と言い出した。それで乗客が皆声を合わせて
  「ネプチューン!」
  「いやいや、それではネプチューンには聞こえませんよ。ハイ、大きな声で」
  「ネプチューン!!」
  「まだまだ、さぁ、一斉に」
  「ネプチューン!!!」
と大合唱で叫ぶと、何と、ネプチューンのお面と衣装を被ったのが出てきて(戈まで持っている)、優勝者それぞれに、首の後ろから、何と砕いた氷を背中に放り込んだ。司会者は、「ご希望の方にはこの洗礼を差し上げます。」と言うと、何名かはすぐに手を挙げた。背中に氷が入って、ヒャーと叫ぶ人達も楽しげで、私も折角だからと入れてもらった。本当にヒャーッという感じだったが、その後、中々ピリピリ感が抜けない。変だなと思って、首から背中に手を入れてみたら、なんと氷のかけらが4つも入っていた。凄くサービスしてくれたみたい。。。同じくサービスされた人は一杯いたのだろう。氷の洗礼を受けた人は、その代わり、ワインを一寸ずつ小さいカップにいれて振舞われた。ホンの一口だが嬉しい。

     
 ネプチューンさんも大忙し        北極圏突入証明書  


その日、無事北極圏を越えたという証明書が皆に配られた。(For what? などとは野暮な。)

 この辺りから、船会社独自の各種お勧めコースのお知らせが出てくる。私達は、Vantageのお仕着せに加え、更に追加が出来る。犬ゾリは明後日だから、早めに申し込む。実は、この犬ゾリ、申し込んだ時は、皆が申し込む人気の種目で、お勧めだから、というので考えもせず、私もと、申し込んだのだが、その日の夜中、突然、アリゾナのマリリンが「あんた、これ、犬好きでないと、無理かもよ」と言った言葉を思い出した。マリリンは、大の犬好きだし、ハスキーを手綱で捌くのも上手い、と言っていた。でも、もし私のハスキー達が予定行路を変えてしまったら、手綱捌きの出来ない私は、どうするのだろう。北極圏で犬ゾリに乗った老女、行方不明に、などという恥ずかしい新聞の見出しがチラチラ頭をよぎり、眠れなくなってしまったのである。翌日、例のエンターテイナーの処に行って(お勧めコースも彼の担当)、オズオズと、「あのォ、私昨日犬ゾリ申し込んだんですけど、実は、犬を扱うの初めてですけど」と言うと、アハハと笑って、大丈夫、貴方が手綱を捌くなんてこと決して無いから。」と。私は、殆ど泣きそうになって居たのだが、座っているだけでいい、と慰められたので、ホッとしたのが真相だ。マリリンに言ったら、「そうみたい。つまんないわ。でもアンタは大丈夫よ」と。彼女はスノー・モビルもやると言った。70歳でこの元気。

北極岬(ノードキャップ)

 フィヨルドだから温暖と誰が言ったか知らないが、北極は北極。ここで、ユニクロと息子から借りたパタゴニアのジャケット(軽くて暖かい)が物を言った。更に毛皮の帽子にスキー用ゴーグル(30年昔のを引っ張りだして)にマフラー、と、村上龍さんに言わせたら、「オールド・テロリスト」なんて。手袋は皮の上にもう一つ嵌めて完全武装。
北航行を続けて、6日目、ホニングスヴァーグで、申し込んだ北極岬ツァーに参加。バスで行くこと1時間。ここは、「北の国から」の中でも氷流の場面その儘の世界である。一面雪と氷に覆われた世界。地球を骨にしたみたいな彫刻が立っている正しく「地の果て、北の果て」ここを観光地に考えた人は偉い。

     
        

 土産物センターは、映画館も付いていて、そこで、オーロラのDVDを鑑賞。まてよ。もしかしたら、旅行に来てから、まだ観ていないオーロラだもの、これからも絶対観られるとは限らないなぁ、と、保険宜しく、観た「オーロラ」のDVDを買った。博物館にはタイの国王がここに来られたとかで、タイ国王用のチャペルもあった。

 その夜、船で夜10時頃アナウンスがあり、「最上デッキで、空を観て下さい」、というので、急いで上がると、夜空は満天の星だった。北斗七星は、これでもかというほどの迫力で天空から迫ってくる。そのなか、フワーと、白雲の塊が動いたかと思うと、そこを目掛けて緞帳が降りてきた。メトロポリタン・オペラのシャンデリアが上がったり下がったりする、あれと同じような感じで、白い薄紗みたいなカーテンが幾重にもサッと降りてきてひらひらと。それは何ともシュールな印象で、でもすぐ消えてしまい、次は、また別の場所に白雲がたなびき、緞帳が、という感じ。これがオーロラなのか、という感激と、でも今朝の映画でみた極彩色は?白だけ?音は?と、それがオーロラを観た夜の実感だ。(人間は何と欲望に限りが無いのだろうか?)
翌日北の端キルケネス(ロシア国境近く)で、日本人グループは皆下船してしまったようだった。ルーズ・マリアが教えてくれたのは、日本人でオーロラの写真を撮っていた方がいて、その写真が、凄くよくオーロラが写っていたのだそうだ。彼女は、頼んで、Emailで送ってもらうことになったと喜んでいた。日本人グループがせめても最後の夜に、オーロラを鑑賞出来たのは良かった、と何故かホッとした。

ハスキー犬賛歌

  キルケネスは、北方航行旅の最終港だ。乗客は各プランによって、いくつかのバスに分散。下船の一組は空港に、犬ぞり組、ロシア国境視察組は、別々のバスに。無論船に残って休む人もいる。私は犬ぞり組。現金なもので、座っているだけでいいと聞いたので、気楽にバスに乗る。一時間ほどで着いたのは広い広い雪の原野であった。雪の斜面に犬小屋が一杯立っている。ここはハスキーの養成所も兼ねている。ハスキーは生まれるとすぐ親から離して(といっても同じ囲いの中で別箱)子犬の時から、人間に慣れさせるのだそうだ。飼育係の女性が皆に披露してくれた2匹の子犬は、大人しく抱かれている。犬好きにはたまらないだろう。それぞれの犬には担当飼育責任者が決まっていて、養育・教育するのだとか。どの子犬も中々ハンサム。

 この子犬が成長すると、犬ぞりのチームに編成される。私達のグループは、二人一組になって、ソリに乗る。ソリは曲線を描く二本の鉄を横木で留めて、その上にカバーの皮を敷き、一人は、殆ど地面に接した皮の上に足を伸ばし、後ろの椅子に座った人が、前の人を足で抱え込むようにして、手すりを握り二人がひっくり返らないようにするのがコツだ。そのソリの後ろに、手綱を捌くドライバー役の人が乗りハスキーに声で合図を送る。この声で、ハスキー達は、一団となって行動する。一台のソリには8頭のハスキーが、二頭ずつの縦列に並んで、ドライバーの指示を待っている。着いた時にはすでに出発の準備が出来ていて、犬達は、早く出かけようよ、と促しの吠え合唱。

 キャロルと私が座ったソリのドライバーは、ジョゼフィーヌという典雅な名前の20代か30代の若い女性で、兄と一緒に組んで、ハスキーの長距離ソリのコンテストに出るという元気一杯なお嬢さん。キャロルと私、乗る方はシベリア送りの囚人、みたいで。

         
 溌剌ジョセフィーヌ    主役はハスキー    無事終了

ハッ、とか、ヒューッ、とか、声を変えると、ハスキーの群れは、一台づつ、動き出した。8頭の群は賢くソリが横転しないよう、速度と路をきちんと選んでいる(ように思える)。白一色の風景の中、犬ぞりは、快適な経験だった。路の凸凹も難なくクリア。お姉さんは、この仕事が大好きという健康そのもの。こんな大自然の中で、好きなハスキーと一日遊んで生活が出来るのはいいかも。元の場所に戻って、写真を、と頼んだら、ハスキーの先頭のところまで走って、可愛いハスキー君ばかり写真に映っていて、私達などは、余り入っていなかった、と僻んだりして。

 犬ゾリ場の後ろ側には、氷で出来たアイス・ホテルがあり、実際に営業している。アイス・ホテルの中は、カウンターもベッドも全て氷。寒くないのが不思議。照明は、赤、紫、緑、黄と部屋毎に代わり、夜は、氷のベッドの上に特殊マットを敷いて、その上に寝袋毛布に包まるのだと。ドアの代わりに、部屋と廊下の間には薄いカーテンをたらすのだそうで。でも、トイレは外だし、食事も別場所だし、余程の珍しもの好きでないと、と思った。一泊一人$400近くというお値段も結構なものだし。ホテルを拝観して、外に出ると、雪景色が眩しい。

     
 出番待ちのハスキーたち      アイスホテルの調度品はアイスです

犬ゾリとホテル見学を終え、船に戻ったら、疲れがドッとでた。
三分の二は消化した。

ノルウェーでは飲み助は大変

 南下を始めた船は、同じ航路を通って元のベルゲン港まで戻るが、停泊港は、同じではない。北上の時と同様、北極圏を離脱した時は、キルケネスから新しく乗った乗客も皆、デッキに集められ、今度は、エナジー・ドリンクとやらを配った。魚の形のスプーンが船からのギフトで、それに魚油を一口ずつくれる。その後口直しにフルーツ・ドリンクも一口ずつ。

 そういえば、北上していた時、氷の洗礼を受けた後のワインがほんの一口だったのも、酒類は、ベラボウな税金が掛かるからかも。船のバーでのお酒はどれも高かった。通常であれば夕食の時などは、ワインとか欲しくなるのだが、これもどういう仕組みか、ワイン・パックで例えば航海中12本とか買い、好きな時に出してもらえる、というのがあったが、見たら、どれもNYでなら一本10ドルから15ドルで買えるボトルが、4−5倍の価格である。私の知る限り、私達のグループで、この12本パック、4110Nクローネ(800ドル)を購入したのは、セバーグ教授のみだった。テーブルで、一杯づつなら頼めるとはいうものの、一人だけワインを注文するのも憚られ、この際、アルコールは、諦めよう、と、バーに行って、ビールかワインをグラスで時々飲む程度で収めた。(ところで、セバーグ教授は12本お買いになったが、夕食のテーブルで飲んでいるのを見たことは無い。恐らく夫人とキャビンで飲んだのだろうか、などとマリリンと余計な詮索をして。)閑話休題。

戦争の傷跡

 スヴォルヴァーという港についた時は、夜6時半だった。8時まで上陸できる。ここには戦争博物館がある。マリリン、シンディー達と戦争博物館に行く。デンマークにもあったなぁ、と思いだしながら、ドイツという国がスカンジナビアから嫌われているのは、ヒットラーばかりのせいではないように思う。デキるけど、イヤな奴、というのはどこにもいるものだ。但し、フレッドは、現在はドイツとノルウェーは友好関係にある、とは言っていた。

 この戦争博物館は、かなり雑然と敵味方の制服、指令要項、ゲシュタポの部屋の再現、ヒットラーが描いた絵画、エヴァの肖像、など、雑多に置いてあった。60クローネ(12ドル)の入場料を取るなら、もっと整備すれば、と思ってしまったが、ただ、雰囲気は、その時代を伝えているとは言えるのかもしれない。マリリンは、その内、館長さんと話込み始めた。ユダヤ系のマリリンにとっては、ドイツ人は絶対許せない相手だろうが、熱心に話込み、最後には、館長さんから、一つのバッジを手に入れてしまった。そのバッジは、Hの字の中棒の上に7という数字が入ったシンプルなバッジだった。第7隊の何かだろうか?

 あとで、船に戻ってからマリリンが話してくれたのは、それは、当時のノルウェー王ハーコン7世(Hと7)を表し、第二次大戦でドイツ侵略への徹底抗戦する国民の合言葉として使われたシンボルだと。ドイツの進軍時に、王室と議会はドイツへの協力を断固拒否した。ハーコン7世の毅然とした決意はノルウェー国民の胸にしっかりとした王への忠誠と、対独抗戦の意思が込められている、と。そして、マリリンの親友(男性)が、ノルウェー出身で、彼女への手紙やカードの最後には、常にHと7をあしらったマークを使っていたこと。彼女がそのマークの意味は?と聞くと、ドイツ・レジスタンスのメンバーが使っていたシンボルだよ、と言ったのだが、彼女はよく判らなかった、だが、この戦争博物館で、館長さんと話す内、その話が出てきて、やっと長年の疑問が溶けたのよ、と。2年程前にその彼は亡くなったのよね、と目を潤ませた。恋人だったのかどうかは判らないが(彼女はそうではないと言ったが)何故となく「紅はこべ」みたいだなぁ、とロマンの香りがしたような気がした。

  

スカンジナビアの複雑さ

 スカンジナビアはご存知の通り、主にデンマーク、ノルウェー、スウェーデンの三国、文化圏としては、アイスランド、グリーンランド(デンマーク領)、フェロー諸島も入るが、最初の三国については言語も殆ど同じである。それで主にこの三国をスカンジナビア(本来の意味は「水の多い地域」の意)と総称するようだ。訪問する国の歴史も地理も無知だったのはこの年になって恥ではあるが、それでも、何か新しいことを学ぶのは嬉しい。

 一昨年4月に、古い友人を訪ねて、デンマークに行った。コペンハーゲンに一週間ほどという短い時間であったが、その時、観光バスに申し込み、あのハムレットで有名なクロンボー城に行った。その後、フェリーで向かい側に渡ったら、そこはもうスェーデンで、南下して、マルメという街を通り、大橋を渡ってコペンハーゲンに戻る、という一日観光だったが、振り返ってみると、この時のガイドさんが、私のスカンジナビアへの興味の糸口を作ってくれたと思う。当時ミクシィの日記に、書いたのがあるので、引用する。
“デンマーク観光だから、ガイドさんはデンマーク人なので、歴史などの説明は、どうしてもデンマーク側の立場だ。…(中略)16世紀位は、アイスランド、グリーンランド、スウェーデン、ノルウェイ皆、デンマークの王国の支配にあったようだ。…(中略)ノルウェイなどは、スウェーデンから独立して100年位になるそうだが、独立した時、国王が必要(!)となって、デンマーク王室から、「分家」したのだそうだ。折角独立するなら、自分達で制度を決めるとか、功のあった人を選挙で、とか考えそうなものだと思ってしまったが、やはり、スカンジナヴィアの方々には共通したヴァイキングの血が流れているのだろうか?王家の分家の話を聞いて、日本の皇室との比較で、不思議に思った。”

 今回、フレッドにこの疑問をぶつけたら、それは、いずれ船の中の文化講義でゆっくり、と躱された。この人、小学校の先生みたいで、生徒は教師に従うようにといわんばかりの60代男。年を取ると頑固になるのは日本人ばかりではない?講義の時も、同年輩のセバーグ教授とよくやり合っていた。セバーグ教授も敗けてはいない。二人の応酬が今回の旅の醍醐味だったというのは皮肉ではない。皆の出席率も段々落ちていったし。

 さて、歴史をはしょると、ヴァイキングの王の系譜を持つデンマークの摂政女王(Regent)マルガレッテは、ノルウェーのハーコン6世と結婚し1397年にデンマーク、ノルウェー、スェーデン三領土を束ねるカルマー同盟を結び、1412年亡くなるまで三国を統治した。この統治にあたっては、本来の正統後継者は、ポメラニア(スェーデン)のエリックだったにも関わらず、マルガレッテが言わば横取りした(エリックを養子にし、自分はその後見人に居座る)、という経緯があったようだ。スェーデンは、この同盟から1523年に脱退したが、その後、1814年ナポレオン王家と結んだスェーデンとの戦いで、今度はデンマークがノルウェー割譲を余儀なくされ、ノルウェーは、スェーデンの一部となった。ノルウェーがスェーデンから独立したのは1905年である。その時、ノルウェーが、王にと希望したのが、デンマークのカール王子で、ノルウェー王ハーコン7世として即位した。この時点から三国はそれぞれ独立国という体裁を取っている。という具合にこの三国は、歴史的にも家系的にも幾重にも絡みあった多彩な毛糸玉みたいである。

 当初、カール王子は、ノルウェーからの申し出に喜んで飛びついたのではなかった。この極めて聡明で英邁といわれる王子は、当時既に論議されていた民主共和制への移行の可能性も含め、自分がノルウェー国民に本当に望まれているのかどうか、国民投票で確認してもらいたいという条件をつけたのである。その結果、国民の79%の賛成投票を得て、ノルウェー王としての名前を摂りハーコン7世として即位し首都オスロに移った。
(フレッドによれば)ノルウェーがカール殿下を希望した理由には、妻が英国王室に繋がる(妻のモード姫は英国王室のエドワード7世の末娘で、エドワード7世の妻は、デンマーク王室出身者であるから従姉妹になる)こと、また、当時既に第一皇太子も誕生していた(ので後継者も確保)ということもあったとか。戴冠式は、1906年6月22日にトロンダイムのニダロス大聖堂で行われた。

     
 戴冠式後     戴冠式が行われたニダロス大聖堂


ベルゲンに戻って

南下を続けて、元のベルゲン港につく。急に大都会に帰ってきたみたいだ。午前中は、ベルゲン近郊のバス・ツァー。遠くに原油掘削所も見え、高い煙突から炎を出していた。
午後は、最初の日に撮りそこねていた場所を収める為、ホテルの近くの高台の教会に行った。雨のそぼ降る中、教会は閉まっていたが、扉の張り紙が目に入った。何と、昨年の3月11日の東日本大震災の為の義捐・コンサートが今年の3月11日にこの聖ヨハネ教会で演奏されたのだ。ポスターは日の丸に桜の花をあしらったシンプルなデザインだが、「がんばろう!日本」の字が目に飛び込む。なんと有難いことだろう、と、心でお礼を言った。

地球が本当に狭くなったことを感じた旅でもあった。(完)



 作成協力 株式会社 トムソンネット