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来年は還暦 イスタンブール 始末記   

来年 還暦を迎える日本人女性が、一人でトルコ イスタンブールを旅した。
この旅行記は、筆者が現地でびっくりしたこと、感激したことなどを実体験に基づき綴られております。
これから同じような旅行を計画している方々の参考になればと思い、掲載しております。
なお、この旅行記は2004年時点での内容になっております
イスタンブールは値段が無い

ロードス島を出たのが朝7時、アテネに着いたのが8時、アテネを出たのが12時ごろ、イスタンブールに着いたのは、だから午後1時半頃だった。飛行場は新しい設備の整った施設である。ところが新しい施設だからと言って、そのノウハウが全て新しい訳ではない、ということを証明したのもこの施設。

税関を通り、入国審査を終了して、カートを引いて歩き出した私はこの広いロビーが全く掴めず、先ずは現金を用意して、と、ATM機に近寄った。トルコの経済状態も全く判らず、前の人の使っているのをコッソリみると、なんと0の数の多いこと。聞いてみると、米1ドルは1,300,000トルコ・リラだって。0が6個で
百万。急に金持になった気がする。
でも何とか、必要な額の現金を出して、宿泊先のフォーシーズンホテルにどうやって行こうかと歩き出すと、両脇から制服姿の男性がずらりと並んでいるのが眼に入る。その後ろには彼らの事務所と思しき小部屋。あぁ、飛行場とホテルの出迎えをやっているのか、と思い、最初の人に、フォーシーズンに行けますか?と聞いてみる。にこやかにイエース。で事務所に招じ入れられる。お茶が出てくる。
随分丁寧だなと思いつつ、いくらですか、というと、それには答えずトルコの何処に行きたいのですか、と聞いてきた。
そこで、丁度いい情報を得よう、と、トロイとガリポリ(これはMさんのお勧めだ)と言うと、やおら計算機を取り出して、色々数字をいれ、普通は、800ドルだけど、貴女には特別に450ドルでやってあげよう。エッ、これ独りで専用ガイドのこと?それにしても、0が6個もついて初めて人並みという国にとって、450ドルというのは大変な額ではないか。ということは、探せばもっと安いところがあってもおかしくない。
そう思って、ここはまずホテルに行くことだけを考えようと、冷淡に、ホテルまではいくら?ときくと、40ドルと来た(50,000,000TRトルコ・リラ)。地図でみれば、飛行場とホテルは15マイルくらい、NYだって、25ドルだ。そこで、私は、決心して、その事務所を出た。この間で30分は経っている。今度は注意深く制服組を見る。いたいた、余り現金を持っていなさそうな若い人達が群がっている事務所。ここで、ホテルまでいくら?と聞くと、15ドル(20,000,000TR)。ザマァミロ、と内心ほくそえむ。とはいえ、フォーシーズンに行くのに乗り合いのマイクロバスを使って行った人は余りいないだろうなぁ。バスの中で考える。着いた途端のこの経験でトルコというのはもしかしたら一筋縄ではいかない場所かも。
この予感はその後、幾多の経験で現実のものとなった。

ホテルあれこれ

今回イスタンブールに行くと決め、友人のSにそういうと、だったら、イスタンブールから来たフレンドを紹介してあげるよ、と。S氏がフレンドという時は大体ガール・フレンドだ。バーで隣に座った、とか、ホテルのロビーで声を掛けた、とか、40歳で独身の彼の話は、いつも、新しい女の子の出会いと別れで溢れている。私はそんな彼の聞き役と、アドバイス係り。大概は別かれた時の色々、例えば彼女に渡したクレジットカードはどうやったら取り戻せるか、とか、ドイツに行くと言ってしまったが、別の子と行きたいけど、どうやって二人を納得させるか、とか、このテの相談を何故か私にする。弁護士のくせに、そんなことばかりしていいのか、と思う反面、話を聞いて面白がるのとで、私も共犯者みたいな気にさせられたりして。ただ、S氏の女の子は皆、美女ばかり。どうしてこんな美女を口説き落とせるのか、と不思議なほど。
5月の末にS氏とイスタンブールから来た子(ネスリといった)とランチをした。(無論会計は私。S氏はこんなチャンスは逃さない。)ネスリはやはりモデル並の美女で、ファッション関係のFITに勉強に来ている。真面目な子だと思ったのは、ランチに来た時、すでにメモ一杯の紙を渡してくれたこと。そこにはイスタンブールで泊まるべきホテル、レストラン、買い物する店、どれもこれも一流ところ。特にホテルはフォーシーズン、チュラーン・パレス、と、どれも、旅行社のお勧め最高級。俄かにお財布が心配になる。

6月にはネスリと二人でメトロポリタン美術館のトラスティ・ダイニング・ルームで
ランチをした。ここは美術館のスポンサー用、ダイニングルームで、大口寄付の富裕層が好んでランチをする一般には入れないところだが、夏、そんなリッチな人達がバケーションに行っている間は私みたいな一般クラスのメンバーでも予約を入れられる。

ここはネスリには大いに気に入って、彼女は、イスタンブールに行くなら両親の家で一晩夕食をするように、と、思いがけないことを言い出した。エッ、一度もお目に掛かったことの無いご両親の家に行ってしまっていいのかしら、と、逡巡する私に、いいのよ、両親は喜ぶわ、と。弟さんがホテルに迎えに来てくれるよう、連絡をする、とまで言ってくれる。考えてみれば、異国に独り娘を送り出している親としては、遠いNYでランチをご馳走してくれる年配のおばさんから、娘のことを聞ける機会だと思うかもしれない。(と勝手に自分に都合よく解釈して、有難くお邪魔することにした)

そうなると、ホテルもフォーシーズンとチュラン・パラスに泊まらざるを得ないなぁ、ということになった、そんな顛末のホテルであった。幸いというか、不幸にもというか、イスタンブールはNATOの事務所があり、テロのターゲットにもなっていて、今年の4月頃だったか、NATOの国際会議を狙って爆弾騒ぎがあった。その為か、普段は両方とも一泊400ドル以上なのが、300ドル以下で取れた。
その前のロードス島は80ドルのホテルでケチることにする。ミエを張るのも大変。

フォーシーズン・ホテル

フォーシーズンは世界各地で最高級ホテルとされているホテル・チェーンのひとつである。
このフォーシーズンはトプカピ宮殿、アヤ(ハギア)ソフィア旧寺院、ブルー・モスクという観光の目玉のすぐ近く、旧市街の中心地にある。この地区は丘となっているので、眺めもよい。このフォーシーズンは、昔、牢獄であったのを改造してホテルにした、とあった。牢獄であったという名残は丘の途中の塀が高いことからしか偲べず、聞かなければそうとは思えない優雅な部屋と造りのホテルである。(セキュリティーはさすがにいい。囚人並か?)

このフォーシーズンでトロイ行きの相談をしてみた。コンセルジェの女性はお金持ちを相手にしているホテル人に特有の鼻が上を向いたみたいな人で、日帰りを手配できます、リモで早朝でて夜帰れます、と。いくらですか?$750.エッ、あの飛行場の人が言ったみたいな値段だ。それにしても一日では高い。あのぅ、民間のバスは?
彼女は、うっすらと笑って(これは僻みか)お勧めしません、と。何故だろう?

イスタンブール観光事情

ホテルに荷物を置いて、まず、手始めにアヤソフィアに行く。
アヤソフィアは正直ガッカリした、としか言いようが無い。これは世界どこの遺跡、史跡にも共通しているが、40年前まではやはり外国旅行というのはそれなりの遺跡、史跡に感激できたと思う。アクセスは限られていて、実際に見てその場所の雰囲気にひたり、あぁこの旅に来る迄の幾星霜、を思いやったりして。(#1)
   
ところが今は、映画はあるわ、インターネットはあるわ、でバーチャルアクセスは日常的になっていて、早い話が二つのホテルの内部だって、とっくの昔にインターネットで検聞済み。インターネットで見た通りかどうかを確かめるみたいになってしまっている。その分、本や、雑誌で見た昔の情報のほうが、寺院などの細部は華麗で荘厳で、それと比べると実際に眼にしたのだが、アヤソフィアの中に組んだ足場の周りを観光客がワイワイいっているような寺院の中は、何故こんなところが名所になるのかという感想さえ湧いてしまう始末。

とはいえ、二階は面白かった。一番不思議に思ったのは、元々ここはコンスタンティヌス帝が建造したキリスト教の寺院で正面・側面には金箔の宗教画が埋め、天井も美麗な色彩の渦で有名だったというのが、イスラームの寺院に無理に変えられた歴史をもつ。イスラームに変わったからにはキリスト教の宗教画はならん、というので、その前に大きな白い丸い板(直径5メートル位?)を置き、その円盤にはイスラームの文字が黒々と(多分コーランからの言葉だろう)。ところが、その裏の絵画はそのまま。尤も漆喰で隠したらしいが、最近はそれを拭い始めた。でももし、宗教が変わるなら、その時点で内部の装飾も変えるのではないだろうか?

この疑問に答えてくれたのは、アヤソフィアを出たところで出会った若者だった。

アヤソフィアを出て、表の強い日差しに眼を馴らそうとパチパチしていると、眼の前に若い男が立った。あれ、この人なんだろう。男は笑いながら、アヤソフィアはどうでした?と流暢な英語で話しかけてきた。サッと素早く見ても、別に手に土産物を持っている訳ではない。そこで、安心して、正直にアヤソフィアにはガッカリしたことを告げた。彼は、あぁそれなら、ブルーモスクに行きましょう。
あそこなら、綺麗ですよ、と。私は、お仕事はいいのですかと聞くと、今日は土曜ですから暇なんです。暇だから観光客の相手をするのか、とも思ったが、もしそれならガイド料を払うと言えばいいかも、と思いガイドしてもらうことになった。彼はアイハンといって多分30代の初め位とみえ、色々トルコ、イスタンブールのことを説明してくれる。だから、ブルーモスク(スルタナメット)に着く頃にはトルコ・イスタンブールについては随分判ったような気がしてきたから不思議。

ブルーモスク
ブルーモスクは実に美しいモスクであった。どのモスクも同じだが、カーペットが敷いてあり、寺院に行く人は入り口で履物を脱ぐ。脱いだ履物はプラスティックの袋が用意されてある寺院もあり(観光客が行くところ)、男性は寺院に入る前に足を洗うという洗い場もあった。カーペットは多分木綿だと思う。地味な模様で単調な織り柄で幅1メートルくらいの長い長いのが何百となくビッシリと敷かれている。裸足の感触がひんやり心地よい。(#2)
   
全ての寺院は正面は預言者モハメッドの生地メッカを向いているのだそうで、イスラム教の人は一日5回、そのメッカの方向を向いて祈りを捧げるのだそうだ。
一日5回は多いなぁと思い、そういえばイスタンブールについてから、街の喧騒の中で、ブーンという音楽のような高低が微かに聞こえたりしたけれど、これがそのモアズィンと言われる祈祷で声明のようなものだろう。

寺院の中には2メートル位の高さのところにワイヤーが巡らされ、そのワイヤーに規則的にランプが下げられている。眼が慣れてくるにつれ、寺院の内部も低い柵で囲いがある部分とで仕切られ、熱心な人は柵の内側に入って祈っている。女性はこの柵の内側には入れない。祈る時はアラーだけを考え、集中して祈るのだそうで、(その集中度によって点数が貰える。この点数が多ければ多いほど、天国での階級が上がるのだとか)だから女性が近くに来てはいけないのだ、とアイハンは言った。
これでは女性は初めから天国とは無縁と言われているみたいではないか、と思ったが、女性でもちゃんと努力すれば天国に入れる道はあるのだそうだ。やれやれ。

ここで、私は、アヤソフィアで何故正面のキリスト教の絵がそのまま残されたのか、聞いてみた。彼によれば、確かにコンスタンティノープルが陥落して、イスタンブールになった時、イスラムの僧正がメッカにお伺いを立てて、アヤソフィア寺院の中の絵画はどうするかを聞いたのだそうである。ところが、メッカは当時それどころではない時代で(それが何かは判らなかったが)いつまでたっても壊せという指示が出なかった為、ついそのままとなったのだ、とか。

確かにあの時代、遥か彼方のメッカとコンスタンティノープルの間で、飛脚を立ててもメッカの人達には余り事情が飲み込めなかったかもしれない。まだキリスト教社会は強い部分もあったのだから、当分様子見と思ったかもしれない。それで漆喰だけは施して隠したが、そのまま生き延びることになったのか。

ブルーモスクの後、親切なアイハンに礼を言おうと、私は、どこかでドリンクでも、と誘った。彼は、何が飲みたいの、というので、私は、ビールか、ワイン、と言った。
かれは、どちらもここでは無理だよ、と。何故かというと寺院の近くでは酒類はご法度なのだと。そういえば、ここは回教の国か、とぼんやり思い出した。

彼は、ワインは自分の所で飲めばいい、という。自分のところってまさかアパートじゃないよね、と思いつつ、どう返事しようか、と迷っていると、アイハンは、自分の店に行けばワインもあるし、という。店?何のお店だろう、土産物屋?カフェ?まぁ、どちらでも、色々教えてもらったし、お世話になったのだから、土産物でも一寸買ってあげれば、と、いいわ、と答えると、今度は彼は、熱心に自分の商売の話を始めた。トルコでは一族郎党が商売のネットワークを持っていて、例えば、一人の叔父さんは宝石屋をやっているし、別の伯父さんは、バザールで店を持っているし、と、彼は、そうした商売を手伝っているのだ、という。繁華街の中を歩いて、道を抜けると小さな小間物屋が並んだ通りにでた。その中の一軒に入っていく。みたところ、皮ジャンとか、小間物を扱う店みたいだ。ついていくと二階にあがっていく。二階の床は木のフロア。ソファがあって、男が二人なにか食べている。彼は二人に向かって何か言うと二人はそそくさと立ち上がった。かれはどうぞと私をすわらせ、次にワインを持ってくる。正直いって、このワイン、物凄く悪いワイン。とはいえ、タダで飲ませてくださるのに文句はいうまい。
彼は、カーペットは好きかと。その時、初めて私は彼の商売がカーペットであることが判った。こりゃ困ったな、よりにもよってカーペットとは。一番高いじゃないの。

アイハンは色々カーペットを出してきて、どれがいいかと聞き始める。いくらガイドのお礼とはいえ、カーペットを買う気にはね、と、私は決心し、旅行社のガイドブックには、最初に行った店で買ってはいけないと書いてあったと口からでまかせ。今日着いたばかりだし、とこれは本当。かれは鷹揚に笑って、わかりました。もし他の店にいって、買いたいと思うのがあったら、ここに電話を下さい、と名刺をくれた。ネットワークがあるので、一番いい値段で買えるようにしましょうと。私はワインのお礼を言って、店を出た。(土曜は暇だというのは観光客の方が、という意味だったのか)
今振り返ってみると、彼は、フェアな人だったと思う。
エンギンのこと
アイハンの店を出た私はホテルに帰る道を探しながら、飛行場のこと、アイハンの商売のことを考えつつ、イスタンブールは一筋縄ではいかない、ということを又も感じていた。その時、街のバス停留所のようなところで今度は更に若い男と、中年の男性の二人組から声を掛けられた。「ナニヲ、サガシテイルノデスカ?」日本語だった。

私はカーペット屋のアイハンを思い出し、「あんた達、何を売る積もり?」と思わず。若いのは(少年と言ってもいいくらい本当に若い子だった)「テヲミテクダサイ。ボクノテニ、ユビ、ナンボンアリマスカ、アナタノ、テト、オナジデハナイデスカ?」 うまいこと言うな、と、一寸ひるんだ。
でも、日本語を話すからといって、騙された人も多いのが外国である。正直、もういい加減親切な押し売りには疲れた。でもこの二人は付いて来て、色々話しかけてくる。(中年の方はニコニコ笑っているだけ。)若いのは自分には日本人の友達がいる、こちらの大学は終わって、もうすぐ早稲田に行くことになっている、それで日本語を使う練習をしたいのだ、と言った。本当かどうかはともかく喉も渇いたしということで、この二人ずれに案内を頼もうと思った。

驚くではないか。この若いの、エンギンと言って、父親はこの辺りでカフェを持っている、そこに行けばビールも飲めるしワインもある、という。そこでそのカフェに行った。なんのことはない、さっきのカーペット屋の近くがホテルの近くでもあり、エンギンの父親のカフェも近くだった。ったく。

カフェはモダンで、ビールもワインも美味しく、中年の方はエンギンの伯父さんだとかで(血は繋がっていないのだそうで)伯父さんはアヤソフィアのガードマンをしているとか。この伯父さんにワインを勧めたら、喜んで飲んだ。エンギンはビールを飲んだ。
私は丁度夕食にと、そこで焼き魚を頼み、二人は飲み物だけでいいと。アヤソフィアのガードマンでどれだけの給料があるのか、(女も年をとると図々しくなる)と、聞いてみると、月$300.やはり、ギリシャとは大分経済事情が違うと思った。ギリシャで警官の若者に同じ質問をしたら月$1,000と言っていた。尤も、ガードマンと警官とは違うから何ともいえないが、やはり、トルコは中々UEのメンバーには入れてもらえないのも仕方ないほど、経済が停滞しているのだろう。(だからそれだけ観光客から絞り取ろうということになるのかも)

エンギンは店の中から「地球の歩き方−トルコ編」を持ってきた。この昨年版にこのカフェが紹介されていたのだそうだ。私に本を渡し、これにトルコのことが色々書いてあるから読んだらいい、と。(これを読んで来た日本人が沢山いて、それで、今年も買ってみた。ところが、今年版にはこのカフェは載っていない、とか)。私は思い切ってトロイへの旅のことを聞いてみた。エンギンは、だったら、そこに旅行社があるから、聞いてあげるよ、と言って席をたった。私が食べ終わった頃、かれは戻ってきて、旅行できるよ、と言う。エンギンの伯父さんはそこで別れて、エンギンは私を旅行代理店に連れて行った。カフェのすぐ側である。流石にここは伯父さん・伯母さんではなかったが、ここの主人の奥さんは日本人だそうだ。きくと、明後日ホテル一泊こみでツァーがくめる。ホテルも高級ホテルでプールもある、という。直ぐに申し込みをして、次のホテルのチュラーン・パラス・ホテルは一晩解約してもらった。このツァーしめて$470。憧れのトロイ行きが実現する。旅行社の切符とか券とかを一式渡された。朝7時出発だとか。

エンギンはホテルまで送ってくれた。明日は、エンギンの伯父さん(又別の伯父さん)のやっている店に連れていってあげるよ、と。
トプカピ宮殿とジーハン
次の日、エンギンがホテルに現れ、トプカピ宮殿に連れて行ってくれた。エンギンは自分は入らず、トプカピ宮殿の3時間後に出口で待っているから、と。トプカピ宮殿は壮麗な宮殿で、庭園の広さとマルモラ海に面した景色とで、大層贅沢な宮殿だった。なかでも映画「トプカピ」に出てきたエメラルドとダイヤモンドの短剣とか、ダイヤモンド細工のターバンの飾り、その他宝石を散りばめた玉座とか度肝抜かれるような宝飾品は素晴らしいものであった。ゆっくり見ていると、3時間は直ぐに過ぎてしまう。(#3,4)

宮殿の外に待っていたエンギンは、私を伯父さんの店に連れていった。この伯父さんは、ジーハンといい日本語が巧みで、読んだり書いたりも出来る。ヘレケ、キリムといった、トルコ産の絨毯を日本に卸すのが仕事だといった。年齢は若く、エンギンよりも7歳くらい上だというから、27,8才だが、実に物腰も柔らかく、商売も洗練され、昨日のカーペット屋のお兄さんよりもずっと好感が持てる若者であった。
   

   
床一杯に次々カーペットを広げつつ、それぞれの特徴を話しながら、しかも巧みに客の好みを絞っていき、最後は3枚ほどが床に残った。どれも非常に美しく、でも高そうなカーペットを前にして、そこまで、ジーハンは一言も値段を言わない。私も観念して、一枚くらいはMike(息子)のアパート用にしても、という気になっている。ジーハンは、「宮平さん、この三枚はどれも皆上等で、さすが目が高いですね。この三枚皆お買いになってください。(と計算機をハジいて)この三枚あわせて$15,000にしましょう。これ三枚とも、すごくいい品です。このピンクのだけで、$10,000位ですから。」確かに、そのピンクの絨毯は、抜群に出来のよい品であった。恐らく普通であれば、それ一枚で$15,000といっても通るだろう。とはいえ、他人の懐ではなく、私の懐だ。
「そりゃ無理よ。置くところが無いわ。それにロードス島で、しなくてもいい出費があったんだもの、その出費がなければよかったかもしれないけど、せいぜい$2,000位しか出せないわね。」「もう一寸いってくださいよ、宮平さん」と、如才のないジーハン。最後に私は、キリムのシンプルな茶系統のを選んだ。品の良い絹織りでしっかりしている。ジーハンはDHLで空輸してくれることになった。関税対策だ。
このキリムは今、私の書斎の床のイランのカーペットの上に二重に置いてある。イランの方はNYのイラン・カーペット専門店で買ったものだ。絹織りで繊細な模様がビッシリ詰まって気に入っている。本当は壁に掛けておくべきものだが、壁が無いので床に敷いている。この上にキリムを置き調和が取れている(と思っている)。当初Mikeに、などと考えていたのが、Mikeのところにはテンジン(孫)がよく居るし、涎でも垂らされては、と、Mikeもお母さんのところに置いておけば、というのをいいことにして。
地下の都(シスターン)
ジーハンのところで買い物をした後、エンギンは、自分の(父親の)カフェの近くの地下の貯水池に行くようにと言った。貯水池が観光名所?これも私の無知。ここは、ユスティニアヌス帝によって532年に建てられたバジリカ(教会)の貯水池で、元々ビザンチン宮の水の補給地として作られたが、トルコに征服された時から使われていなかったのを、1980年代に復元し、今は地下宮殿シスターン(貯水池)として有名なのだそうだ。(後でハタと思い出したのが、映画007の「ロシアより愛をこめて」に出てきた一こま。艀でこのシスターンを移動したら、たしか上がロシア領事館。)

地下鉄の入り口みたいのを降りていく。エンギンはやはり切符は一枚だけ私の分を買って、自分は入らない。降りていくにつれて眼が暗闇に慣れてくる。ヒンヤリとした空気が肌に心地好い。そこは地下の大広間だった。)



暗いのは地下だからで、底は地下水が張っている。その水の上に回廊がめぐらされ、観光客はその回廊を歩いて回る仕組みだ。15メートルはあるかと思われる高いアーチ形のバジリカの中、その回廊を歩いている人達の後をついていく。回廊のところどころには燭台が燈されて、その橙色の燭台の灯が底の水に映されて、天井までの高さがそっくりそのまま地下に反映されて、深い幽玄の地下帝国が出現する。よく見ると水そのものはそれほど深いわけではなく、所々には鯉のような魚さえ群れている。
蝋燭の灯がこの地下帝国のシャンデリア。この闇の中の微かな光の交響曲を愛でながら奥に進むと、そこにはローマ帝国時代からあったと言われるゴルゴンの首の柱礎が水の中に出現する。なぜ、ここにゴルゴンの首があるのか。それも逆さに。

ゴルゴンは元々美女だったのが自分の美を誇るあまりにアテナ女神を侮ってしまい、そこで女神の呪いを受けて、頭髪は蛇になり、その形相は恐ろしく、一目見た者はそのまま石になると伝えられたギリシャ神話の恐ろしい神である。そのゴルゴンが水の中から恨めしげに回廊を歩く我々をじっと見上げている。もしかしたら、ここから地上には永遠に出られなくなるのではないか、と、そんな気にさせる。でも、最後の回廊は両側の蝋燭が地下水に映えて、それは美しい幻影を出現させた。いつまでもそこにいたくなるような不思議な体験。


ネスリの家
夜6時半にネスリの弟ムスターファが高級車に乗ってホテルに迎えに来た。トルコは領土が広大で、人種も東と西とで、同じ国とは思えないほど、色々ある。エンギンはクルド族で、いわゆる中近東の顔だが、ネスリ、ムスターファの家族はヨーロッパ系統である。ムスターファはネスリより3歳年下というので、多分23歳くらいだろう。とはいえ、ムスターファはすでに会社の社長代理をやっている。手から携帯を離さず、運転中も間断なく電話が入ってくる。ネスリの家は、金角湾を渡った飛行場の近くの振興住宅地にあった。小綺麗な家が並んだ日本でも世田谷あたりに見られる低い鉄柵が並んだ地区だ。内部はモダーンな造り。

ムスターファが家族を紹介してくれる。ネスリのお母さんはアスラ。ほっそりとした綺麗な人。王族?の血を引く家系だったとか。ネスリが綺麗なのも頷ける。ネスリのおじいさんがムスターファ。トルコでは男は祖父と父親の名が交互に長男につけられるのだそうで、お父さんはモハメッド。
だから、ムスターファが結婚して長男が生まれたら、自動的にモハメッドとなる、という。おじいさんといっても精悍で髪は真っ黒、血色も良く、若々しい。それもそのはず、彼はローマ・オリンピックにレスリングで出場、メダルを獲ったという人物で、黒海沿いのサムソンという都市の出身である。オリンピック後、サムソンで政治家となり、商業バス会社を興して財をなした。ネスリの家族はだからバス会社のオーナーで、最近までお父さんがその仕事をしていた。ところがお父さんは何かの事故にあい、殆ど全身不随の身となって今は車椅子生活。お会いした時、私は若々しいおじいさんと、車椅子の白髪で小さな男の人と取り違え、車椅子がおじいさんだと思ってしまい、ムスタファの話で間違いに気がついた。こういう時は言葉が判らないのは有難い。もう一人紹介されたのは叔母さんとかいう人、名前は最後までわからなかった。ここで、更にとちったのは、若い男の人がいたので丁寧にお辞儀をしたら、この人、サーバントだった。食事の間中、水を入れたり、食器を提げたり、というバトラー(執事)というより従僕。トルコにはまだそういう階級があるのか。

お父さんが不随となってから、仕事は若いムスターファが仕切っている。このムスターファのみが英語を話すので、彼が電話に出てしまうと、会話は成立しなくなる。おじいさんは、途中で、「あんたもトルコ語を勉強しなさい」という意味のことを言ったと、あとでムスターファが言っていたが、私だってそう思う。食事は、お酒は全く無しの、
羊の煮込みと野菜料理。トルコは野菜が新鮮で豊富であることを思い出す。名前も判らない色々な野菜と豆を煮込んだものがヨーグルトと一緒にだされる。中近東の味だ。
これで赤ワインがあったらなぁ、と、ひそかに思う。
トルコ・コーヒーと果物の甘い煮付けで終わって、ムスターファは家の中を見せてまわった。ネスリの部屋には洗濯物が干しだなに掛けてあって、どこも同じだなぁ。ムスターファの部屋は、簡素で、そこにハイテクの機器が一杯並んでいる。ムスターファはどうやらそれを見せて自慢したかったみたい。やっぱり男の子だ。皆にお礼を言って9時半頃ホテルに帰った。帰り道ムスターファはトルコの経済事情を話してくれた。
援助をしている国は嫌われる、というのはここでは実感となっているのだろう。いくら嫌いといっても、アメリカ抜きでは今の世界は成り立たない、それはムスターファの部屋の機器が証明している。複雑な思いで部屋に帰る。多分ムスターファの時代にはそんなことも昔話になっているかも、と願いつつ。
   
トロイ顛末
朝、フォーシーズンはチェックアウト。約束通り7時に旅行社の主人がホテルに迎えにきた。荷物は主人の旅行社で預かってくれて、帰ったら、荷物と一緒にチュラーン・パラスに連れて行ってくれる、とのこと。一晩の軽装のみ。

朝のイスタンブールは道もすいている。前の晩に「地球の歩き方−トルコ編」をホントの一夜漬けでフンフンと読んだが、これでトルコが判る訳も無い。
20分くらい経っただろうか、あるホテルの前にきた。主人はそこに泊まっている小型バスの運転手に話をして、戻ってくると、「丁度このマイクロがバスターミナルのところまで行くから、ここで降りてください。荷物は明日帰った時に渡します。」言うとおりにして、マイクロに変わった。客はそれでも私一人。マイクロはそれから走ること1時間。郊外の山の上にあるバスターミナルに到着。バスがビッシリ隙間無く停まっている。マイクロの運転手は、私を一台のバスの車掌に引き合わせてさようなら。

車掌さんに切符を見せる。これは昨日もらってきた旅程表だ。これだけが英語。車掌さんは身振りで、これではダメだと言う風なこと。ダメって、これが証拠じゃないの。ちゃんと$470払ったって書いてあるし。でも車掌さんはダメの一点張り。事務所に行って、私も必死で、旅行社とかお金の部分とかを指でさす。こんな郊外のバスターミナルから又戻るなんて絶対嫌だ。でも誰も英語が判らない。旅行社だって、まだ8時半。開いていない。エンギンのセルフォンも番号はトランクの中に入れて旅行社に預けてしまった。そのうち、ふと思いついて、バス事務所の人に今夜泊まるホテルに確認を入れて欲しい、と何とか伝えた。バスの人はホテルに連絡を入れ、幸いにも私の名前はあった、というので、私にはバスに乗りなさい、とピンクの券を渡してくれた。トロイは2000年以上の観光の名所だからか、皆トロイの木馬のネクタイを締めている。

バスは私を最後にドアを閉め、走りだした。南下すること2時間。走り出してしばらくすると、車掌さんがオレンジ・ジュースと、カステラのようなのを皆に配った。これって観光バスかしら。でも、それにしては場所の説明も何もないし。
隣は若い男の人。トロトロと英語を話すみたいだ。そこで、話をして、これからどうなるのか聞いてもらおうとしていたら、車掌さんが来た。「あんた達連れ合いか?」とかいうことを言ったらしい。男が「違う」といった。すると、車掌さん、私に、「あんたはあっちに行きなさい」と身振り。でもチケットの席番号は合っている、と言おうとしても判らない。そこで行けと言われた席をみたら中年の女性が座っている。あぁ、ここは回教国だ。

そこで、その女性の隣にすわった。この人も若干英語が判るみたい。トロイは、トルコ語でトロワという。そこで、私はトロイに行くという積もりで、トロワ?というとノー・プロブレム。大丈夫と頷いた。そこで先ずはホットした。
2時間後、バスは地方のターミナル(少憩地、トイレなど)に着いて、皆と一緒にバスから降りてみた。他のバスも一杯止まっている。

ここで、ようやく勘の悪い私も、昨日読んだトルコの旅の仕方を思い出すことになった。「地球の歩き方」には、トルコ国内を異動するにはバス旅行が安いが、この旅行をするには、先ず、市内から市外のバス駐車場(オトガルという)に行き、ここから網の目になっているバス(オトバス)に乗る、と。私はオトガルに行き、オトバスに乗っているのだ。でも、そうするとあの旅行社のツァーはどうなるのだろう? ひょっと、自分のバスを見て、仰天した。イズミール行きとある。イズミールは10−12時間南のロードス島の近くになる。私はトロイに行くのに。
私の目は更に点になった。バス会社の名前がトロワ(トロイ)ではないか。
私が勝手にトロイ行きと思っていたのは、彼らにはトロイ会社のバスと聞こえて、そうだ、そうだ、と、言っていたのかも。あのネクタイだって。もしかしたら、トンでもないバスに乗せられたのかしら。そう思い出すと肌寒く、自分のおっちょこちょいに、気分が悪くなってきた。

さて今後どうしようか、と考え考え、ふと気が付いたのが、軽装に持ってきたのが、塩野七生の「ローマ人の物語、(ローマ帝国の歴史)」。確かあれに地中海の地図があったはず、と、開いてみる。丁度、2000年前のローマ帝国の版図があり、(ローマ帝国がヨーロッパの幹線道路を作ったというその証拠)トルコも入っている。トロイまで、ちゃんと書いてある(日本語だけど)。そこで、隣の伯母さんに地図を見せて、私はここに行きたい、と言ってみた。伯母さんは熱心に2000年前の地図を見て、車掌さんを呼び、二人で地図を前に何事か話しをした。

次に、車掌さんは、トロイの何処に行きたいのか、と聞いた(と思う)。そこで、私は宿泊予定のホテルの名前を言った。すると車掌さんはバスの中で大声を張り上げ何か言うと、乗客の一人が手を上げる。車掌さんは勝ち誇ったように、何か言い、隣のおばさんに訳すように頼んだ。伯母さんは、この人はそのホテルの従業員だから、この人と一緒に降りればいい、と。私は、もう一度2000年前の地図を指して、行きたいのはホテルではなくてトロイだ、と伝えた(と思う)。

この頃にはエイヤと腹を括り、幸いトロイもイズミールも同じ南だ。トロイはイズミールに行く前の通過地点だから、どうにかなるだろう。ホテルは予約があるのだから、最悪ホテルについてからトロイの案内人を探してもらい、帰りも最悪タクシーを頼もう、と思う反面、あぁ、こんなんだったらホテルのあのツンと済ました人のいう通りリモで修めておけばよかったのか、と我が身をかこつ。

その間もバスは南下を続け、ダーダネルス半島の先端に到着し、フェリーで本島に渡るところまで来た。トロイは本島側だ。
  
フェリー乗り場に着いたとたん、金髪の若者が乗り込んできて、英語で「誰か、ツァーに申しこんだ人は居ますか?」私は思わず両手をあげてしまった。英語が判る人なら、なんとかなるだろう。はやくオトバスとは別れたい。

金髪は慣れた仕草で、こっちに来てください、と。その土地の観光旅行者の事務所につれていってくれた。もう、お昼の12時半だ。事務所では、お昼ご飯用のサンドウィッチと水のペットボトルを手渡して、2時に出発だからね。そこはヨーロッパ、アメリカからの旅行者専門用の事務所だったのだ。エンギンが知っていれば、当然そんなところを紹介していただろうけど、トルコ国内の人にはオトバスが一般的だし、誰も外国の言葉も判らない老女が独りで旅行することを想定している訳では無い。

この金髪に出会った時点で、安心したのかガツガツ食欲が出てきた。

事務所で待っていた数人の観光客は1時半過ぎには皆それぞれのツァーに出て行ってしまい、のこされたのは私ひとり。2時過ぎにミニバスとガイドと思しき人がやってきて、ようやく私は乗り込んだ。行った先はガリポリ。ここは第一次世界大戦(1917−1919)の時、ドイツ側についたトルコと連合国側との激戦地。戦後、各国の記念碑、霊名碑などの戦争記念碑が数多建てられ、沖縄の摩分仁の丘みたいなところだ。Mさんが良かったといったのは、連合側に敗北したトルコがその後ヨーロッパと講和条約を結び、最後の激戦地に碑を作った時、当時のトルコの将軍(ケマル・アタチュルク)がその碑に、
“― 若い兵士達を送りだした母達よ、あなた方の息子はいまや敵国ではなく、講和を結んだわれわれ同胞、われわれの息子と共に安らかに眠っているとご安心下さい。−”というような意味の言葉が穿たれている碑に感激したのだそうで。
   
ダーダネルス海峡を望み遥か彼方は地中海が広がる墓地は美しくも哀しい場所であった。

4時半頃にはツァーは終わり、ホテルに無事到着。ここはチャナクルという港町である。夕方港沿いの街は若者の街になるのも波止場のある風景の一こま。結局、ツァーとはいうものの専属ガイド、運転手付きの贅沢なツァーであった。着く前の波乱万丈と比べると、何と平和な晩だったろう。
  
トロイの遺跡
長年の夢が果せたという意味では何もいうことは無い。過去何年間か掛けてロードス島に持っていっては少しずつ読み、今年の3月にようやく「イーリアス」「オデュッセイア」両方とも(岩波文庫 上下二巻)を読み終えた。ストーリーはオデュッセイアの方が色々あるが、私にはイーリアスの方が、神々と人間と運命の有様が非常によく見ているなぁという思いで面白かった。

このイーリアスには3300年以上昔とはいえトロイの街とか、戦場の名、河の名前などふんだんにでてくるので、正直何故、シュリーマンが遺跡を発掘するのにこんなに時間がかかったのか、不思議でならなかったのである。来てみてわかった。

遺跡の場所はずっと前から推察はされていたのだ。シュリーマン(及びその後の発掘者)が確認したのは、トロイが陥落し、街が滅びた後、何回か、何層かその上に築きあげた多くの権力があり、ローマもその一つだが、そのため、何処にどれだけ元のトロイがあったのかが判らなくなってしまったのをより正確に調査するきっかけを見つけたということである。(未だにオハイオ大学の学生が毎日掘り返している。)
シュリーマンは印象とは違って歴史家ではなくて、古い遺跡から古物品を掘り出しては、金持ちに売る発掘屋をしていたということも面白かった。ある日、奥さんとこの遺跡の上でお昼をしていたとき、偶然光るものをみつけそれがその時代に知られていたそこの遺跡とは時代を異にしていたため、さらに掘り進んでようやく何層か下にトロイがあることがわかった、という。
   
(彼は早トチリをして、トロイでもないのにトロイの遺物だと間違って言って偉い貴族に売ってしまったこともあるとか。後で判ってお金を返したのだそうだが。)

なにしろ幻のトロイなのが、あった場所だけはハッキリした、というので、トロイの馬を作り出して、観光資源にした模様。でも、正直いうと、この木馬で騙されたというのはトロイの武人には失礼ではないだろうか、というほどの出来。
   
トロイから帰って泊まったのがチュラーン・パレス
フォーシーズンが国際的名門ホテルなら、チュラーン・パレスは、土地の華といったところ。絢爛豪華なホテルで、世界中からお金の使い道に困った人達がここにくると安心する、とでもいうようなホテルで、正直私には場違い(ホテルもそう思っただろう)の感じがあった。歩いて外に出ると、何だか悪いみたいで、ひとこと、車を、といえば3人くらいが飛んでくる、みたいな場所であった。

でも良かったのはここの屋外プール。ホテルはボスフェロス海峡を望んで、建てられているが、ホテルと海峡の間の細い土地を利用して、二段に段差をつけてある。低い方は子供用の小さなプールがあり、親が子を見ているサイドに椅子、テーブルが置いてある。上の方は海峡に沿って楕円形の大きなプールで、上の段からは下の段は見えない。だから上のプールで泳いでいると、眼の前の海峡がすぐそこに迫っているような錯覚に陥る。
この海峡を見ながら、海峡にひたっているような気分で泳いだ時の充実感は今でも懐かしい。
   
ところで、プールの客は、皆ホテルの部屋についているガウンを着ている。これは外部の人が入ったらすぐチェックできる仕組みだと思う。それで私もと、部屋に備え付けのガウンを着てみた。これが真っ白の厚手で、大きくて長くて、私が着たら、お引きずりみたいになってしまう。でもプールに行く制服だから仕方がない、と手で持ち上げてプールにいったら、あら不思議、よその奥様・お嬢様方は皆、ちゃんと短いのをスマートに優雅に着ているじゃないの。
早速帰って調べてみたら、私の部屋は二着とも男子用のだった。それで女性用のを持ってきてもらって、改めてプールに行った次第。男の部屋で、仕方なく男のガウンを着ていたみたいで(誰も私に関心がある訳ではないとはいうものの)恥ずかしかった。

このホテルから20分ほど歩いたところが港で、レストランがにぎわっている。若い人達は夜っぴいて踊って楽しんでいるようなところだった。

イスタンブール最後の夜は、パラスの屋外バーでピアノを聞きながらカクテルを一人満喫した。
これぞ旅の醍醐味。  あぁ、無事これ名馬、っていうことか。(了)

筆者紹介

宮平 順子(Miyahira Yoriko)

東京都出身 1945年満州生まれ(同年引上) 現在、米国在住
昭和53年、NYの保険代理店モリタ&カンパニーに入社、以来顧客サービス、日系企業を対象としたブローカー業務に携わり、副社長として代理店の窓口業務を通して、社内のシステム・事務管理を統合、ETC, Liberty, Appliedなど代理店システムを初期の段階から導入し、事務処理要領・マニュアル等整備し、社内の事務指導にも携わる。
現在はNY, NJの保険代理店でアドバイザー・コンサルタントとして活躍。特に米国進出の日系企業に保険を通してアドバイスをしてきた経験と実績が豊富。
取得保険資格 NY Broker’s License,CPCU, CIC, AMIM 
株式会社 トムソンネット シニアビジネスパートナーとして米国の保険業界と日本の保険業界の橋渡し役として活躍中。
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この旅行記は 株式会社 トムソンネットの協力で作成されています